2026年4月26日礼拝説教文書(音声はありません)

「神の霊による命」 ローマの信徒への手紙8章1-17節 武田厚子伝道師

神の霊による命

本日の個所とも関係しますが、古代教会において、「どのようにしてイエス・キリストの中に神性と人性が一つとされているか」というのが議論されました。これは、どのように、キリストが神であり、同時に人であるのか、ということです。ネストリウスと言う人は、イエスの内には「神と人という二つの本性と二つの人格」が存在すると主張し、431 年エペソ公会議で異端とされました。
その後、451年に、カルケドン教会会議が、開かれ、そこで、キリストのうちに「二つの本性が一つの人格となって存在している」という、テルトゥリアヌスと言う人の定式、見方を確認しました。
なお、東方教会には、人間の救い主としてのキリスト、キリストの人性を強調するアンティオキア学派がありました。また、もう一つは、真理の教師としてのキリスト、神性を強調するアレクサンドリア学派 の二つの潮流がありました。両派ともに「どのように」イエスは神であり人であるのかという点が問題でありました。しかし、カルケドン教会会議で、この両派の極端な見方は、退けられました。

 ローマの信徒への手紙の8章は、信仰によって義とされるということの結論的なことを述べている個所です。人は、律法の実行、遵守等によって義とされるのではなく、信仰によって義とされることが言われています。そして、人はそのように義とされて、終わりの日に、神の前に立つことができることが、示されています。
 本日の個所の1-4節では、神の救いの業が語られています。そして、5-11節では、肉に従って歩む生き方と霊に従って歩む生き方について書かれております。最後の12-17節では、神の子とされる霊を受けていることが、語られています。ちなみに、この個所において、新共同訳と、より新しい聖書協会共同訳との解釈上の違いは特に見られませんでした。

 
 本日の個所の01節で、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」とパウロは、断言しています。パウロは、前の章の7章で、内在する罪の問題について語っています。そして、次のように言いました。07章 21節「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 07章 22節「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、/ 07章 23節わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」と言う言葉です。そして、この罪の法則から救ってくださるのは、キリストである、と語っているのです。
 肉、と言う言葉がでてきますが、肉は、ヘブライ語では、バーサールで、ギリシア語ではサルクスと言う言葉です。肉、そのものは、善でも、悪でもありませんが、罪の支配を受けやすく、罪そのものとしても、示されています。ロマ8:3
また、別の個所で、ガラテヤの信徒への手紙/ 05章 16節「――霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」とも言われているとおりです。

また、霊と言う言葉がでてきますが、旧約聖書において、霊は、単に、ルーアハと言う時、「風、息、気」を示しています。それは、神が人間の内に吹き込んだ命の息を示しています。創世記/ 02章 07節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と創世記に書かれております。このように、人間が生きることができるのは、霊によるのです。エゼキエル書/ 37章 05節「――主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」とも記されております。聖霊は、キリスト者の内に住んでくださるのです。
神は、03節にありますように、「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。わたしたち人間の内には、パウロが言うようなどうすることもできない内在する罪の問題があります。しかし、神は、わたしたち人間を愛するがあまり、御独り子を人間と同じ姿で、この世に送ってくださいました。そして、御子イエス・キリストの十字架における死により、罪なき者を罪としてくださったのです。キリストが、わたしたち人間の罪の贖いを成し遂げてくださいました。このことにより、わたしたち人間は、罪と死の法則から解放されました。キリストによって、命をもたらす霊に従って歩む道を、わたしたち人間のために開いてくださったのです。神が、わたしたち人間を罪と死から救ってくださいました。

本日の個所の5-11節では、肉に従って歩む生き方と霊に従って歩む生き方について書かれております。「霊の思いは、命と平和」であると、書かれております。イエスは言われました。ヨハネによる福音書/ 06章 35節 「――「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言う言葉です。わたしたち人間は、キリストにあって、新たな命を与えられているのです。
また、「霊の思いはーー平和」でもあります。平和もキリストが与えて下さるものなのです。ヨハネによる福音書/ 14章 27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と主イエスはわたしたちを勇気づけてくださいます。
また、ヨハ 16章 33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と、主イエスは言われました。イエス・キリストは、十字架に架けられ、亡くなりました。しかし、父なる神が、主イエスをよみがえらせてくださいました。復活させてくださったのです。イエス・キリストは、すでに世に勝っているのです。伝承によりますと、使徒パウロも使徒ペトロも、信仰のゆえに、最後には、十字架に架けられて亡くなった、と言われています。しかし、彼らは、世に勝利なさっているキリストを信頼し、苦難があっても、勇気をキリストから頂き、伝道を続ける生涯を全うしたのです。

本日の個所の12節からは、神の子とされる霊のことが、語られています。ローマの信徒への手紙/ 08章 14節「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。08章 15節 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」と記されています。
イエスが十字架に架けられる前のゲッセマネの祈りで、主イエスご自身が、こう言われました。マルコ 14章 36節「――「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と言う言葉です。「アッバ」というのは、小さい子供の言葉で、パパと言う言葉のアラム語の音訳です。ロマ書8章の個所では、礼拝で、会衆が挙げる歓呼の声であると、理解されています。わたしたちは、神の霊によって神の子とされている、というすばらしい恵みを頂いているのです。

聖霊は、キリスト者のうちに宿っていてくださり、神の国の世継ぎとしての保証となっていてくださいます。別の個所で、ガラテヤの信徒への手紙/ 04章 06節「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。 04章 07節 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」と記されています。わたしたちは、神の子とされ、さらに、御国の世継ぎとされている、というこの上ない恵みが与えられています。
17節にありますように、「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。わたしたちは、キリストと共に御国の世継ぎになれるのです。この世での苦しみは、あるかもしれませんが、その苦しみをはるかに超える栄光が、わたしたちの将来には、備えられているのです。それゆえに、パウロは、ローマの信徒への手紙/ 08章 18節「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と断言しています。

この御国の世継ぎとされる、という確信は、わたしたちのこの世での苦しみを和らげてくれる、と言えます。人づてに聞いた話ですが、ある身体的な障がいを持つクリスチャンの方は、毎日、生活を成り立たせるだけで大変な思いをしている、とおっしゃっていたそうです。しかし、将来、御国の世継ぎとされている、キリストと共にその栄光にあずかれることを思うとき、とても慰められ、励まされる、とおっしゃっていたそうです。わたしたちは、この世で苦しんで終わりとなるわけではないのです。その向こうに、それをはるかに超える恵みが備えられているのです。

キリストが、十字架と言う考えられないほどの犠牲を払って、わたしたち人間を罪と死から救ってくださいました。そのことによって、わたしたち人間は、神の霊に従って歩む生活がゆるされているのです。その霊は、わたしたちを神の子としてくださる霊です。この世で何が起こっても、わたしたちは、「アッバ、父よ」、といつでも父なる神に叫ぶことができます。そして、わたしたちは、キリストと共に御国の世継ぎとして、栄光に与る日を待ち望みつつ、希望をもって歩んでいけるのです。